
大戦末期、連合軍との本土決戦を想定し作られた特攻兵器の発射基地。比叡山(京都市/滋賀県)の頂上付近に作られた同基地の写真とスケッチが発見されました。
滋賀県内在住の郷土史家が大津市の古書店で発見したのは攻兵器「桜花」発射基地の写真と、基地全体をスケッチしたものです。発見されたスケッチによると、同基地は比叡山(848メートル)の山頂付近に建設されており、また公的な資料には存在が示されていなかったとのことです。
この写真を撮影したのは旧制京都三中(現京都府立山城高校)の生徒が比叡山に登って撮影したとみられ、アルバムに10枚収められていました。写真のそばに「昭和21年(1946年)9月1日」と記されていたことから、この日に撮影したとみられています。
専門家は「不明な点が多い基地の全容がわかるきわめて貴重な資料。本土決戦に向けた緊迫感も伝わってくる」と述べています。


写真には琵琶湖に向かって敷設されたレールや桜花を載せる台車に取り付ける噴射装置などが写っており、さらに1枚の写真の裏面には、基地全体の配置を記したスケッチも描かれていました。そこにはレールや回転台の位置、特攻隊員が宿泊した施設やカタパルトの部材を隠した場所まで詳細に書き込まれていました。
同基地は終戦後連合国軍による爆破が行われています。大津市歴史博物館は、終戦記念日に合わせ、8月中にも見つかった写真などを館内で公開する予定です。
写真:一式陸攻に搭載された桜花
桜花は機首部に最大1200kgの徹甲爆弾、後部にロケットエンジンを搭載した小型の航空特攻兵器。多く作られたタイプは大型の攻撃機を改造し母機に変更、桜花を機体下部に取り付けられるようになっていました。桜花は母機と共に敵艦近くまで運ばれ人が乗り込み切り離し。ロケットエンジンの推力で敵艦に突撃するというものです。

陸上発進型の桜花43型(写真は訓練機)
またこれ以外にも43型では爆弾重量を600kgに減らし、代わりに燃料タンクを増設することで最大200kmの射程をもつ桜花が作られています。この機体は今回紹介した陸上に設けられたカタパルトから発進する方法がとられていました。多くの基地が作られたものの、実際に使われたことはなく終戦を迎えています。
参考:産経新聞
この写真を撮影したのは旧制京都三中(現京都府立山城高校)の生徒が比叡山に登って撮影したとみられ、アルバムに10枚収められていました。写真のそばに「昭和21年(1946年)9月1日」と記されていたことから、この日に撮影したとみられています。
専門家は「不明な点が多い基地の全容がわかるきわめて貴重な資料。本土決戦に向けた緊迫感も伝わってくる」と述べています。


写真には琵琶湖に向かって敷設されたレールや桜花を載せる台車に取り付ける噴射装置などが写っており、さらに1枚の写真の裏面には、基地全体の配置を記したスケッチも描かれていました。そこにはレールや回転台の位置、特攻隊員が宿泊した施設やカタパルトの部材を隠した場所まで詳細に書き込まれていました。
同基地は終戦後連合国軍による爆破が行われています。大津市歴史博物館は、終戦記念日に合わせ、8月中にも見つかった写真などを館内で公開する予定です。
特殊攻撃機『桜花』

写真:一式陸攻に搭載された桜花
桜花は機首部に最大1200kgの徹甲爆弾、後部にロケットエンジンを搭載した小型の航空特攻兵器。多く作られたタイプは大型の攻撃機を改造し母機に変更、桜花を機体下部に取り付けられるようになっていました。桜花は母機と共に敵艦近くまで運ばれ人が乗り込み切り離し。ロケットエンジンの推力で敵艦に突撃するというものです。

陸上発進型の桜花43型(写真は訓練機)
またこれ以外にも43型では爆弾重量を600kgに減らし、代わりに燃料タンクを増設することで最大200kmの射程をもつ桜花が作られています。この機体は今回紹介した陸上に設けられたカタパルトから発進する方法がとられていました。多くの基地が作られたものの、実際に使われたことはなく終戦を迎えています。
参考:産経新聞