1980年代に発生した2つの大きな航空事故。1985年8月、日本の御巣鷹山に墜落し500人以上が死亡した日本航空123便墜落事故(日航機墜落事故)。そしてアメリカの112人が死亡したものの184人が生存できたユナイテッド航空232便不時着事故です。この事故で多くの人命を救ったのは日本航空123便の事故を研究・訓練していた機長でした。
1989年7月19日。事故は突然発生します。アメリカのコロラド州デンバーから飛び立ち一時間後のフィラデルフィア上空を飛行中だったユナイテッド航空232便DC-10の機体後部で爆発音が発生します。
DC-10は現在の航空機ではほとんど見られない垂直尾翼の位置にエンジンがついている機体で、これが爆発したことで破片が飛散。あろうことか操縦に必要な油圧系統を破壊したことで操縦桿が全く効かない操作不能となりました。
事故当時の状況として、機体が右に傾いた状態で操縦不能となったといい機長らは慌てて姿勢と取り戻そうと操縦桿を操作。しかし油圧が死んだ状態になっており全く受け付けなかったといいます。そして徐々に高度が下がり始め墜落し始めます。
状況としては操縦桿に合わせて動く『動翼』が全て機能停止。No.2のエンジンが停止し主翼の2つのエンジンのみが唯一コントロール可能な状況でした。
機長らは残されたエンジンの推力を上げ下げしてなんとか飛行。高度と姿勢を維持しようとしていました。しかしエンジン出力の微調整で上昇と下降を繰り返す極めて繊細な操縦が必要で不安定な飛行が続いていたといいます。
そんな彼は1985年、500人以上が一度に死亡する航空事故『日本航空123便墜落事故』で、油圧が破壊された場合にどのように機体を操縦できるのかその操縦方法を独自研究していました。彼はフライトシミュレーターで油圧を喪失した状態でエンジン出力の調整だけで機体を操縦する訓練を行っていたといいます。結果的にこのスキルが多くの乗客を救うことに繋がります。
フィッチ機長は乗務員に事情を話したところコックピットに入る許可を得られました。そこでフィッチ機長が目にしたのは機長が操縦桿を左に思いっきり振っているにも関わらず期待は逆の右旋回していました。挨拶はしたものの機長らは前を向いたまま振り向く余裕すら無かったといいます。その後、機長から操縦が効かないこととエンジンが2つ操作可能なことなど状況が伝えられました。
状況としてはフィッチ機長はコックピット中央にひざまずいた姿勢で唯一機体を操縦できるエンジンスロットル調整を任されます。これにより機長と副機長の負担が軽減されたことで管制塔との通信など特に不時着や緊急着陸に関係するやり取りに専念することができたといいます。
機長を含め副機長そしてフィッチ機長らは不時着の直前の34分間、機体をどのように制御しなければならないのか、飛行機の損傷が具体的にどの程度であるか、さらにどこにどのように着陸するのか、乗客に案内はどのようにするのかについて意見を交わしました。
▼事故機の飛行ルート。画像中央下から離陸。右上の▲でエンジンが壊れ、左のスー・ゲートウェイ空港に不時着した
そして着陸の11分前に降着装置を下ろし、エンジン推力のみで誘導し着陸姿勢に入りました。
▼着陸前に撮影された写真、赤は損傷部分
着陸した時の速度は時速400km/hと彼らた予想した速度よりも30km/hほど速いものでした。機体は横転しながら分解し炎上。滑走路から右にそれ着陸地点から1kmほど離れた畑で停止しました。
その後の状況としてフィッチ機長はこのように回想しています。
そしてコックピット。奇跡的に着陸まで誘導させたパイロットらが乗ったコックピットは機体から分離し腰ほどの高さまで潰されていたといいます。「生存は絶望的だ」と救助隊らは判断し救助は後回しにされたものの割れた窓から手が出ているのに気づき救助が始まりました。彼ら航空機関士も含め4人は骨折など重症を負いながらも全員生還できました。
一方、乗客らについては機体が分離したことで状況が別れています。
コックピット後部から前方部にかけては破壊されたことで大半がFatal 死亡(灰色)。機体前方部は多く人が生存しているのですが、中央から後部にかけては特に燃料が多く入っている関係もあり主翼付け根付近は十字マーク Fatal (smoke inhalation) 煙による死亡。そして主翼の後部付近も分離しておりこちらも大半が死亡となりました。
▼赤は死亡、橙色は生存
原因はエンジン内部で高速回転するファンディスクが経年劣化により破断したことでした。金属破片が飛び散ったことで油圧を損傷し操縦不能になりました。ユナイテッド航空の整備チームが経年劣化を把握しておらず見過ごされていたことが原因でした。
DC-10のメーカー、マクドネル・ダグラスは有事時の油圧系統の全体損失を防ぐためにヒューズを設置し、油圧喪失時にも一部の装置は作動可能にするなど航空機製作工程を改善したといいます。このような様々な航空事故により現在の安全な旅客機技術として多く取り入れられることになります。
ちなみにこの機体の機長だったアルフレッド・C・ヘインズ氏は罪悪感とトラウマのため相談治療を長く受けていたことがわかっています。以後、経済的な難しさで娘の手術費を賄うことも難しい状況に直面したものの、このニュースが報じられたことで生存者から手術費の募金があったことも明らかになっています。
DC-10は現在の航空機ではほとんど見られない垂直尾翼の位置にエンジンがついている機体で、これが爆発したことで破片が飛散。あろうことか操縦に必要な油圧系統を破壊したことで操縦桿が全く効かない操作不能となりました。
事故当時の状況として、機体が右に傾いた状態で操縦不能となったといい機長らは慌てて姿勢と取り戻そうと操縦桿を操作。しかし油圧が死んだ状態になっており全く受け付けなかったといいます。そして徐々に高度が下がり始め墜落し始めます。
状況としては操縦桿に合わせて動く『動翼』が全て機能停止。No.2のエンジンが停止し主翼の2つのエンジンのみが唯一コントロール可能な状況でした。
機長らは残されたエンジンの推力を上げ下げしてなんとか飛行。高度と姿勢を維持しようとしていました。しかしエンジン出力の微調整で上昇と下降を繰り返す極めて繊細な操縦が必要で不安定な飛行が続いていたといいます。
2人目の機長出現
実はこの機体、乗客に機長が客として載っていました。名前はデニス・E・フィッチ。彼は事故機と同じDC-10の機長の資格をもつ人物で飛行時間は2,987時間。さらに空軍で1,400時間の豊富な飛行経験がありました。そんな彼は1985年、500人以上が一度に死亡する航空事故『日本航空123便墜落事故』で、油圧が破壊された場合にどのように機体を操縦できるのかその操縦方法を独自研究していました。彼はフライトシミュレーターで油圧を喪失した状態でエンジン出力の調整だけで機体を操縦する訓練を行っていたといいます。結果的にこのスキルが多くの乗客を救うことに繋がります。
フィッチ機長は乗務員に事情を話したところコックピットに入る許可を得られました。そこでフィッチ機長が目にしたのは機長が操縦桿を左に思いっきり振っているにも関わらず期待は逆の右旋回していました。挨拶はしたものの機長らは前を向いたまま振り向く余裕すら無かったといいます。その後、機長から操縦が効かないこととエンジンが2つ操作可能なことなど状況が伝えられました。
状況としてはフィッチ機長はコックピット中央にひざまずいた姿勢で唯一機体を操縦できるエンジンスロットル調整を任されます。これにより機長と副機長の負担が軽減されたことで管制塔との通信など特に不時着や緊急着陸に関係するやり取りに専念することができたといいます。
機長を含め副機長そしてフィッチ機長らは不時着の直前の34分間、機体をどのように制御しなければならないのか、飛行機の損傷が具体的にどの程度であるか、さらにどこにどのように着陸するのか、乗客に案内はどのようにするのかについて意見を交わしました。
▼事故機の飛行ルート。画像中央下から離陸。右上の▲でエンジンが壊れ、左のスー・ゲートウェイ空港に不時着した
緊急着陸
機体は3人のパイロットらによりスロットル調整という限られた方法だけで姿勢を保ち飛行し続けスー・ゲートウェイ空港に緊急着陸する決断を下します。彼らは搭載された大量の燃料が着陸後火災を引き起こす可能性があったため空中で燃料を投棄しました。そして着陸の11分前に降着装置を下ろし、エンジン推力のみで誘導し着陸姿勢に入りました。
▼着陸前に撮影された写真、赤は損傷部分
- 15時59分58秒:機長「スロットルを閉じて」
- 16時00分01秒:フィッチ機長「いや、スロットルは引けない。そうしたら失敗する」
- 4秒後:副操縦士「左、アル」「左スロットル」「左、左、左、左…」
- 16時00分09秒:別の対地接近警報が鳴り始める
- 続けて、副操縦士「曲がってる、曲がってる、曲がってる!」
- 16時00分16秒:衝撃音、そして記録終了
その後の状況としてフィッチ機長はこのように回想しています。
ものすごい衝撃で推力レバーに置いた手が振り落とされ、まるで巨大な手で後ろから頭を突き飛ばされたようになって無線機パネルに打ち付けられました。…(略)…窓が緑一面になったと思うやいなや、今度は明るい光が映りました。すぐにまた緑や茶色になり、熱と湿気が射し込み破片が落ちるのを感じました。その後は……、その後の壮絶さは口では言い表せません。
112人死亡、184人生存
緊急着陸後、エンジンが爆発し火災が発生。これに伴い機体に乗っていた搭乗者が多数窒息死することになりました。そしてコックピット。奇跡的に着陸まで誘導させたパイロットらが乗ったコックピットは機体から分離し腰ほどの高さまで潰されていたといいます。「生存は絶望的だ」と救助隊らは判断し救助は後回しにされたものの割れた窓から手が出ているのに気づき救助が始まりました。彼ら航空機関士も含め4人は骨折など重症を負いながらも全員生還できました。
一方、乗客らについては機体が分離したことで状況が別れています。
コックピット後部から前方部にかけては破壊されたことで大半がFatal 死亡(灰色)。機体前方部は多く人が生存しているのですが、中央から後部にかけては特に燃料が多く入っている関係もあり主翼付け根付近は十字マーク Fatal (smoke inhalation) 煙による死亡。そして主翼の後部付近も分離しておりこちらも大半が死亡となりました。
▼赤は死亡、橙色は生存
事故原因は爆発したファンブレードの経年劣化
なぜ飛行中にエンジンが爆発したのか。原因はエンジン内部で高速回転するファンディスクが経年劣化により破断したことでした。金属破片が飛び散ったことで油圧を損傷し操縦不能になりました。ユナイテッド航空の整備チームが経年劣化を把握しておらず見過ごされていたことが原因でした。
DC-10のメーカー、マクドネル・ダグラスは有事時の油圧系統の全体損失を防ぐためにヒューズを設置し、油圧喪失時にも一部の装置は作動可能にするなど航空機製作工程を改善したといいます。このような様々な航空事故により現在の安全な旅客機技術として多く取り入れられることになります。
ちなみにこの機体の機長だったアルフレッド・C・ヘインズ氏は罪悪感とトラウマのため相談治療を長く受けていたことがわかっています。以後、経済的な難しさで娘の手術費を賄うことも難しい状況に直面したものの、このニュースが報じられたことで生存者から手術費の募金があったことも明らかになっています。