image_105

現在の中央アメリカに地域に存在していたのは有名なマヤ文明。その一つ都市マヤパンは西暦1200~1450年まで存在していたとされているのですが半世紀ほど続いた干ばつで殺戮がはじまり衰退した説が新たに報告されています。

マヤ文明といっても実はいくつか都市があり今回干ばつによる滅亡説が提唱されているのはマヤパンという遺跡が現在も残る地域です。

Drought-Induced Civil Conflict Among the Ancient Maya | Nature Communications
https://www.nature.com/articles/s41467-022-31522-x

この研究はネイチャーに掲載されたカリフォルニア大学人類学部ら研究チームが行ったもので結論としては干ばつが長引いたことで内戦を引き起こし自ら殺戮を繰り返した結果政治的に崩壊、残された人々も去っていったというというものです。当時、4平方kmの周囲に城壁が築かれ内部には3500もの住居跡が確認されています。当時の人口は1万1000~1万5000人程度とみられています。

なぜ内戦が発生していたことがわかったのか。これは残された人骨です。複数の研究でこの地域では紛争があったことを示唆する外傷性損傷の兆候が見られる人骨が複数発見されています。具体的には肩甲骨、胸郭、または骨盤に石ナイフが埋め込まれていたことが示されてます。

さらに人骨の栄養状態などから西暦1400年から1450年という半世紀近く長引く干ばつがマヤパン地域を襲っていたことがわかっており、降雨量の減少と紛争の増加との間には一定の相関関係があることが分かっています。結果的に放棄につながった可能性が最も高いと研究者らは述べています。

▼民族ら自らの手で破壊され放棄された都市
image_106

発見された重要な人骨には『最後の集団墓地』というものがあり、多くの遺骨はおそらくココム(国家元首)の家族のものであったと研究者らは報告しています。ただし発見された人骨からは対立する派閥と社会不安によってもたらされた血なまぐさい結末を伝えているとしています。

一方で当時裕福な海岸沿いの町や政治的に独立した集落などが存在しており、マヤ文明の影響力があるユカタン半島の他の地域への人々の移動が行われマヤパン崩壊後もマヤの人々・文化が以降も繁栄し続けるのに役立っていたといいます。そしてこれらの地域間にマヤパンのような紛争があったという証拠はほとんど確認されていません。
ただしその後スペイン人の侵略によりマヤ文明全体が崩壊することになります。

研究者は『人間と環境と適応回復力のあるシステムの証拠』としており、環境がいかに人に影響を与えるのか、マヤ地域には社会の変化・変動する気候条件の相関関係を研究するのに不可欠な考古学的、歴史的、気候の記録が幅広く豊富に残されていると語っています。